ルトって誰?

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Hi! ルトです!!

 
画像はルトくん代理の伏見の稲荷狐。伏見稲荷大社でお迎えしました。
右の画像は、さーつるに様に描いていただきました。
名前は「神使君(しんしくん)」です!

当ブログにようこそ!
管理人をしていますルトと申します。
かつては月光ルト、坂井琉斗などと名乗っていたこともありました。
ここでは私の自己紹介をさせていただきたいと思います。
どうぞ、よろしくお願いいたします!

ルトのプロフィール

HN:ルト
性別:男
誕生日:10月26日
生まれ:愛知県名古屋市
居住地:東海地方
趣味:読書、昼寝、料理、手帳いじり、ドライブ、写真、温泉、旅行(特に京都が大好き)、神社仏閣めぐり、散歩、映画鑑賞、ダーツ、ビリヤード、雑談、御朱印集め、官公庁の食堂でメシを食べること、食べ歩き
好物:お寿司など和食全般、精進料理全般、海鮮料理全般、そば(つけかけ問わず)、ラーメン(味噌ラーメンと台湾ラーメンが特に好き)、焼きそば、カレーライス、名古屋めし全般、焼き鳥、モロヘイヤのスープ、ステーキ、ホットケーキなど。
生きがい:文章を書くこと、小説を書くこと
特技:ブラインドタッチ、安全運転、長距離行軍(かなりの距離を歩ける)など
保有資格:普通自動車第一種運転免許限定なし(現:準中型5トン未満限定)、乙種危険物取扱者(第三類、第四類、第五類)、図書館司書潜水士、小型特殊船舶、有機溶剤作業主任者技能講習フォークリフト運転技能講習ガス溶接技能講習日商簿記検定3級二級葬祭ディレクター技能審査
備考:日本骨髄バンクにドナー登録している。2018年2月11日に登録。そして2019年12月に実際に骨髄提供を行った。
御朱印帳を3冊所有している。(お稲荷さま専用、神社専用、寺院専用の3つ)

HNの由来
小学生の頃、コロコロコミックに載っていたドラえもんの「君の描いたキャラが映画に出演するかもしれないよ」という企画で応募されてきたイラストの中にあったハスキー犬のキャラの名前から。
惜しくも映画出演は逃しましたが、私はその「ルトという名のハスキー犬のキャラ」に一目惚れしてしまい、自らの分身のようにとらえ、ルトと名乗るようになりました。
あのときこのキャラを生んでくれた方、本当にありがとうございます。

ルトの来歴

誕生

10月26日
名古屋市内の病院で生まれる。日付が変わる頃に生まれたらしい。
現在、その病院は移転したときいています。
両親がその年の1月~2月頃に京都を旅行中、嵐山の竹藪の中で母親が体調を崩し、病院にて検査と診察を受けた結果、僕が母親のお腹の中にいたことが判明したらしい。
(2021年12月に両親から聞いて判明)

幼稚園卒園まで、愛知県→三重県→愛知県と東海地方を親の仕事の関係で転々とする。
なお、この頃の記憶はほとんどない。
断片的に覚えていることしかない。

小学校時代

どこにでもいるバカな男子小学生だった。
小学1年生のときに親戚の家でファミコンと出会い、スーパーマリオブラザース(初代)を初めてプレイし、ゲームと出会う。
のちにプレイステーション(初代)とサルゲッチュに出会い、ゲームの虜となってしまったことから、ゲームにハマる。
毎年夏休みの終わりは、溜まった宿題に四苦八苦していた。
小学4年までを名古屋で過ごし、小学5年からは親が家を建てたことで岐阜に引っ越す。
親友と呼べる友達が何人もできた時期でもある。
この頃から、社会科見学で名古屋や岐阜、三重の各地に行ったり、両親に東海地方の名所や名古屋市内にある親戚の家によく連れていってもらったりしたせいか、名古屋を中心とした東海地方に対する特別な気持ちを抱くようになった気がする。
しかし方言を話さずテレビで聞いていた標準語を話していたことから、同級生から変わっている奴だと見なされていたらしい。

中学校時代

部活動に興味が全く無かったが、「全員何らかの部活動に入部しなければならない」という学校の方針でバスケットボール部に入部。
運動神経は皆無に近かったため、常にベンチにいた。
この頃、自らの人生を決めたともいえる出来事が3つ起こる。

1つは創作との出会い。
中学一年の頃、宮沢賢治にドハマリし、銀河鉄道の夜からモロに影響を受けた(というよりも完全にパクった)短い物語をノートに書いて同級生に見せた所、大好評。
文字で人を楽しませることから来る達成感と喜びを知り、思いつくままに物語を書き散らすようになる。
そしてそれがきっかけとなり、作家になることを志す。

もう1つはインターネットを覚えたこと。
当時流行していたフラッシュ動画や電車男、ハマっていたポケモンのファンサイトでの交流、マンガやライトノベルの影響もあって、ヲタクへの道を突っ走って行く。
ブログはこの頃から無料のFC2で書き始めた。
その後、2回ほど閉鎖と新設を繰り返す。

そしてもう1つが、アクアマリンとの出会い。
入学して間もない頃、2年生の先輩が合唱した「COSMOS」を聴き、大きな衝撃と感動を受けた。そして半年後、自分も音楽の時間に合唱するようになり、曲名と作詞作曲をしたミマスという人の存在を知り、インターネットで「アクアマリン」の代表曲だったことを知り、アルバムCDを購入して原曲を聞いた。
これがきっかけとなり、アクアマリンの大ファンとなる。
アクアマリンの曲を聴きながら、物語を考えるのが定番となり、至福のひとときでもあった。
アクアマリンから受けた影響は計り知れない。

いじめを受けるようになった時期でもある。
内申に響くのを恐れ、何をされても無抵抗というガンジースタイルで乗り切った。
今から思えば、多少派手に暴れておくべきだったと後悔している。

高校時代

学力は無かったが、人物と態度が真面目なことが評価されて推薦入学。
受験に失敗するのではないかと戦々恐々としていたため、かなり助けられた思いだった。
無事高校生活がスタートするが、落第への恐怖と「大学に行ってさらなる勉強を積んで作家になる」という気持ちから勉強するようになり、少しずつ成績が上がり始める。
放課後には毎日、学校の自習スペースに残って勉強していた。
数学だけはどう頑張ってもダメだったが、国語や社会などの文系科目は学年でも上位をキープするようになっていく。
なぜか書道は学年全体で1位の成績を獲得した。
携帯電話は高校1年から持ち始めた。
所属していたクラスが秀才からバカまでいてなかなかのカオスな高校生活を送る。
また、ニコニコ動画が誕生したことにより、ニコ厨の仲間入りを果たす。
アクアマリンのライブに初めて足を運び、記念撮影とサインを貰い、ファンサイトにいくつかライブレポートを書くようにもなった。

なおこの頃、クラスにいたかなりしつこいバカからのいじめと、家庭内での問題(両親の離婚危機)から日曜日に親友と遊んだり、物語を書いたり、パソコンをしたり、映画を見たり、理由もなく散歩するなどで精神的な安定を保っていた。
どれか一つでも欠けていたら危なかったと今では思っている。
またそうした環境やランボーなどの映画の影響からか、強いものへの憧れが生まれていたのか兵器や軍事関係に興味を持つようになり、いわゆる軍ヲタのような存在へとなっていく。

大学時代

大学進学を希望し、愛知県にある仏教系大学の文学部に入学する。
通学に片道一時間半もかかるようになったが、大学に行けたことと毎日名古屋へ行けることが嬉しくてほとんど苦にならず。
大学では元々友達を作る気があまり無かったが、文芸部に入部したことにより同じ学部学科の友達が自然と多くできて気の合う友達も多くなり、毎日が楽しくなっていく。
それまでほとんど女友達がいなかったこともあり、女性の魅力と恐ろしさを知る。
大学一年の夏からマクドナルドでアルバイトを始める。
初めての大学夏休みには、任意参加の行事で永平寺に一泊して参禅体験をし、生まれて初めて座禅に触れ、それまでほとんど興味が無かった寺社仏閣に興味を持つようになる。
秋学期が始まると、少しずつ大学生活に馴染んでいく。

そんな中、2011年3月11日に東日本大震災が発生。
最初は長い地震だと思っていたが、ツイッターの騒ぎ方が尋常じゃないと思い、テレビをつけて事の重大さを知る。
大学2年は震災の年であったこともあり、なんとなく一年が沈んだ雰囲気だったと思っている。
学生生活は順調に進み、毎週水曜日にある日本民俗学の講義がとても楽しく、民俗学ゼミを希望したが通らなかったため、領域の近い社会学のゼミに入る。

大学3年の秋には自動車運転免許を取得する。
高校生の頃から愛用していたノートパソコンがついに壊れ、新しいノートパソコンを購入する。速度が格段に速くなってすごく快適だった。

そして年の瀬になると就職活動がスタートした。(当時は大学3年の12月から始まることになっていた)
「不景気といわれてるけど、きっとどうにかなるだろう」と思いながらも不安を感じつつ周りと同じように就活スタート。
当時はこれが地獄への入り口だとは思いにもよらなかった。
次々にお祈りを頂き、公務員試験も受けたが全滅していく。
そんな中、大学4年の年の瀬に地元の小さな町工場から「もしルトくんさえ良ければ」と仮内定のようなものを頂く。
しかし、そこで研修中に行っていた作業で右目を負傷したことと(視力は辛うじて失わなかったが、あと数ミリでもずれていたら黒目に金属片が入って確実に失明していた)、一人だけどうしても相性の合わない人がいたため、続けていくことに不安を感じ、辞退。
卒業後にフリーターとなってしまうことが確定する。
この頃に社労士という資格の存在を知るが、あまり興味は湧かなかった。
卒業式の後、一人で沖縄へ旅行し、そこで小型特殊船舶(水上オートバイ)の免許を取得する。
余談だが、卒業論文のタイトルは「タバコが社会に与える影響」であった。

大学卒業後

単位は真面目に修得していたので就職を除いたら問題なく大学卒業。
ハローワークを中心とした就職活動と、その資金を稼ぐためにマクドナルドでのアルバイトに勤しむ。
国民年金は学生の時は学生納付特例を使い納付していなかったが、卒業後はすぐに毎月のアルバイト代から工面し、自らコンビニで納付書を使って納付するようになる。
また使える資格を取得しようと考え、14年に「有機溶剤作業主任者技能講習」「フォークリフト運転技能講習」「危険物取扱者乙種3類、乙種5類」「ガス溶接技能講習」を取得する。
この頃、生まれ育った愛知や名古屋がネット上でバッシングされてきたことを知った他、父親(大阪出身)も目の前で度々愛知や名古屋を中心とした東海地方をバッシングするようになり、表には出さないが、それに対する強い憤りを抱くようになってくる。
14年の11月に愛知県商工会連合会から「採用候補者となった」と初めて仮内定のようなものを頂き、嬉しさのあまり乱舞する。
正式採用となると、半年以内の試用期間のうちに簿記検定3級を取得しなければいけないと知り、「なら今のうちに取っておこう」と思い立ち、2か月間勉強をして日商簿記検定3級を受験。
商業高校出でもなく、勉強も受験も初めてだったが、100点満天で合格して驚く。
(詳細はこちらの記事参照→日商簿記3級はすぐ取れる!まずは仕訳だ!
しかしその後、一度面談があったが採用とはならず、結局ふりだしへと戻される。
この頃、アルバイト先のマクドナルドが腐肉を使用したナゲットや異物混入などで客足が減ってしまったことで危機感を覚え、マクドナルドで社員になろうかという考えを捨てる。
就職がなかなか決まらず、会社は当てにならないと考え始め、自営業やフリーランスでやり抜いていこうと考え始めることが増える。
15年の12月から労働基準協会が行う社会保険労務士講座に通い始め、就職活動ではそれが功をなしたのか、名古屋市内の社会保険労務士事務所に16年4月1日付けで事務員として採用が決まり、一応のフリーター脱出となる。

社会保険労務士事務所時代

スーツを着て満員電車でオフィス街に日々通うようになる。
見た目はサラリーマンとほとんど一緒だが、扱いはバイトの事務員。
健康保険は無かったため、地元の役所で国民健康保険に加入する。
今までとは全く方向性の違う内容の仕事に毎日怒られながらも、ビジネスマナーや専用ソフトの扱い方、社会保険と労働保険の知識を学んでいく。
講座での勉強と実務の違いに戸惑いながらも、なんとかお役に立てる存在になろうとするが失敗を繰り返し、たびたび怒鳴られることで少しずつ自信を無くしていく。
満員電車での通勤にもなじめず嫌になって行き、勉強にも身が入らなくなる。
そして離職票の作成と申請をほとんど初めて同然で任されて失敗し、訂正に向けて走り回る中、社労士試験にも失敗したことでついに心が折れる。
そんな中でも、社会保険や労働保険の簡単な書類作成や専用ソフトの扱い方、ビジネスマナーや接客応対、電話応対などは少しずつ身について行った。
また、顧問先の企業の担当者や代表取締役の方には大変お世話になった。
それからも助成金申請書類の作成や車の運転代行などを任されてこなしていくも、最終的には11月末日付けで、労働契約期間満了という形で離職する。
そして再びフリーターへと戻っていくことになる。

再度フリーターとなって

マクドナルドに戻って再びフリーターとなる。
保険関係の勉強をしたことが功を成し、離職票と源泉徴収票はしっかり受け取る。
その頃になると、外国人のクルーも増えていたことから教育などを任されるようになるが日本人とは違う感覚や考え方などで教育は難航する。
一度は再びマクドナルドで社員になろうかと考えたが、学生の頃から見てきた社員や店長の激務と重すぎる責任、前述したナゲット等の件が引っ掛かり、再びその考えを捨てる。
ハローワークを中心に就職活動に動く傍ら、ライトノベル作品を2作完成させ、新人賞に応募する。
後に2作とも落選したことを知る。
就職活動をする傍ら、正社員と自営業者(フリーランス)について学んでいったり、親戚の自営業者から話を聞いていくうちに、自営業者に対する見方が変わって行った。
ブログを使って稼いでいる人の存在を知り、色々と調べ始める。
ワードプレスでのブログ立ち上げを考えていた時、内定を得て再就職が決まり、マクドナルドを2017年7月で退職する。
それと同時に引越しを始め、実家を出て一人暮らしを始めることになる。

葬儀社社員時代(正社員)

田舎の葬儀社に就職し、そこで葬儀担当者として働き始める。
仏教系大学の文学部卒という学歴が評価されたのか、なりたがる人が少ないのかは分からないが、正社員として就職できたことに安堵する。
当初は事務仕事をすると思っていたが、現場に行くと知って愕然とする。
最初は先輩に同行して仕事を学んだが、故人様を目の前にすると緊張してなかなか集中できなかった。
しかし、先輩方や上司のサポート、生花部門や料理部門に協力会社の方々、そして大変な中だというのに優しい葬家の方々のおかげで、少しずつ業務を覚えていき、半年後には先輩のサポートもありながら実際に葬儀担当者としてデビューする。
覚えることも多く、朝早くて夜遅いというハードな仕事ではあったが、最後に葬家の方々から直接伝えられた「ありがとうございました」「最後までお世話になりました」という感謝の言葉を伝えられていくうちに「辛くて辞めたい仕事」から「大変だけど誇りを持てる仕事」に変わっていった。
時にはおりを受けることもある中、誇りを持って仕事をして経験を積んでいたが、2年経った頃に所属長が変わったことで、大きく運命が変わることになる。

新しく来た所属長と僕は、水と油だった。些細なことでさえ、まるで鬼の首を取ったかのように口を突っ込んできた。もちろん、自分が犯した仕事のミスについて注意を受けるのは、仕方がないことである。しかし、他の人がそんなことを言われない中、僕だけがグチグチ言われるのは納得がいかなかった。
当初は我慢していた僕も、少しずつ上司として信用できなくなっていき、距離を置くようになっていった。

その後、新型コロナウイルスが広まって大きく業務が変わってしまう。
その中でも誠心誠意仕事に対して向き合い、葬家のためにと働いていた。
しかし2021年に起きた2つの出来事がきっかけで「こんな上司の元でこれからも働いていくのなんか、耐えられない」という気持ちになり、2021年7月末をもって退職した。
本音では辞めたくなかったため、自己都合だがかなり不本意な自己都合による退職となった。

なお、葬儀社社員として働いている期間に、尊敬できる上司とも出会えた。
その上司から教えられたことは、今も自分の中でポリシーとして大切にしている。

葬儀社社員として勤務している時に懐に余裕ができ、休みの日に日帰り温泉に行ったり、日帰りで京都に旅行をするようになった。
また同人誌即売会などのイベントにも、積極的に参加するようになった。
骨髄バンクにもドナー登録しただけでなく、骨髄提供も行った。
貯金もそれなりの金額を作れたため、トータルではいい時期だったと思っている。

今後、受験予定又は受験を検討している資格一覧

ルトくんは、数多くの資格に挑戦していたりもします。(資格マニアとも)
ここには、今後受験する予定(した)or受験検討中の資格を載せておきます。
なお、ここに書いてあるからといって、必ずしも取得するとは限りません。
あくまでもルトくんが「取得したいな~」と思っている程度のものです。

・行政書士
・社労士(平成28年度の第48回社労士試験を受験済み。結果は不合格)
・一級小型船舶操縦士
・船舶衛生管理者
・けん引免許
・大型二種免許
・大型特殊免許
・普通自動二輪免許
・二級ボイラー技士
・火薬類製造保安責任者
・甲種危険物取扱者
・第二種電気工事士
・第三種冷凍機械責任者
・宅地建物取引士
・通関士
・日商簿記2級
・クレーン運転士(限定なし)
・高所作業車技能講習
・玉掛け技能講習
・移動式クレーン運転士
・第一種衛生管理者
・酸素欠乏危険作業主任者
・警備業務検定
・食品衛生責任者

ここまで読んでいただき、ありがとうございました!

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