2017年の5月に、永代供養のため永平寺へ分骨に行ってまいりました。
今回は、その時のことをお話ししたいと思います。
ずっと前から親戚の間で永平寺に分骨してもらうことにはなっていたのですが、
色々とありましてそれがだいぶ流れてしまっていました。
しかし今回、やっとそれができるということになり、母方の親戚(祖母と叔父二人)と母と私で永平寺へ分骨に行くことになりました。
分骨するのは、母方の曾祖母と祖父です。
私が中学生になる頃までは、まだ曾祖母も祖父も生きていました。
中学3年の頃に曾祖母が亡くなり、高校2年の頃に祖父が亡くなりました。
どちらの葬儀にも参列した覚えがあります。
5月の中頃に、親戚がレンタカーを借りて永平寺に向かいました。
高速道路をひたすら走り、琵琶湖のすぐ西側を通って福井に向かいます。
途中、昼食を挟んで13時過ぎ頃に永平寺門前町の志比に到着しました。
私にとって永平寺は、実に7年ぶりでした。
(前回行ったのが、2010年の一夜参禅の時。その記事はこちら)
叔父が車を駐車場に停め、私が曾祖母と祖父の遺骨を持って車から降りました。
それから少しは私が遺骨を持っていましたが、途中から「葬式の時に喪主だった祖母が持った方がいい」ということになり、祖母に遺骨を手渡して永平寺へ入りました。
7年ぶりに永平寺へと足を踏み入れましたが、7年前と全くといっていいほど変わっていませんでした。
ここに来ると、本当に別の時間が流れているのではないかと感じます。
祖母と叔父は、永平寺に入るとすぐに永代供養の手続きをするための順番待ちを始めました。
吉祥閣の一階にある總受処の参禅係という場所が、受付になっていました。
持って来た分骨用の遺骨と、埋葬許可証(確かこれだったはずです。もしかしたら改葬許可証だったかも)を提出し、お金を支払っていました。
人生勉強の一環として、私も後ろから手続きする様子を見ていました。
そしてここで重大な問題に気がつきます。
なんと、数珠を持って来ていませんでした!!
私だけでなく、母も持って来ておらず、数珠を持っていたのは祖母と叔父だけでした。
どうしようか困っていると、売店がありました。
祖母と叔父が永代供養の手続きをしている間に覗いて見ましたら、数珠を販売していました!
男性用、女性用共にあり、値段もお手頃なものから高いものまで幅広く揃えられていました。
ちなみにこの中で最も高かったのは、12000円する永平寺杉を使った長い数珠でした。
渡りに舟だと思った私は、そこでお手頃な価格の数珠を1つ購入しました。
2500円くらいだったと思います。
この後すぐ使うため、会計を終えましたらすぐに数珠を桐の箱から出し、ジャケットのポケットにしまいました。
手続きが無事に終わりますと、服に取りつけるリボンが配られました。
安全ピンで取りつけるようになっていまして、これで一般の拝観目的で来た人と区別するのだそうです。
ちなみにこの後、母と叔父は永平寺の御朱印帳を購入したり、瓦志納をしていました。
御朱印帳と瓦志納は、私もやっておけば良かったと少し後悔しています。
次回、永平寺に行ったときは必ずやりたいことです!
時間が来ますと、指定された部屋に向かいます。
そこが控室になっていまして、時間になると雲水さんが呼びに来るというものでした。
私が入った時でも、すでにかなりの方が見えていました。
控室でお茶を飲んだり、煎餅を食べたりしながら、私は時間が来るのを待ちました。
しばらくしたら雲水さんがやってきまして、
「本日15:00からの法要に参加される方は、準備をして廊下に並んでください」
と告げて行きました。
控室にいた全員が動き出したので、履いていたスリッパがどこに行ったかすぐに分からなくなってしまいました。
仕方なく、誰かが履いてきたであろうスリッパを履いて法要が行われる祠堂殿(しどんでん)に向かいました。
祠堂殿の中は少し暗く、灯りが無いと足元が少し不安になりました。
一夜参禅の時には入らなかった場所なので、今回初めて入りました。
驚いたのは、壁や棚一面に真っ黒な位牌が所狭しと並べられていたことです。
全国から納められたものらしく、小さいものから大きいものまで様々でした。
大きいものには、何十人もの名前が刻まれています。
いったいどれだけの人の位牌があるのか、想像もつきませんでした。
決められた場所に荷物を置いて正座していますと、雲水さんと永平寺の和尚さんがやってきまして、読経が始まりました。
雲水さんは全員で8人くらいいまして、そのうち一人が木魚を叩き、もう1人が太鼓とけいすを叩きながら読経していました。
木魚とけいすも、普通の寺院や葬儀場にあるものとは違い、とっても大きいものでした。
そして読経が始まってからしばらくしてから、焼香が始まりました。
まるで葬儀みたいだと思いながら、その場にいた分骨に来た全員で焼香に向かいます。
雲水さんや和尚さんに合掌礼拝して挨拶しながら、葬儀の時と同じようにお香を手にし、焼香をしました。
座っていた位置に戻ってしばらくしてから、読経が終わりました。
これで法要が終ったらしく、参列した人は次々にリボンを取り外して祠堂殿から出て行きます。
私もリボンを服から外し、回収している雲水さんに手渡して祠堂殿を後にしました。
その後、私は永平寺の中を母、祖母に叔父と共に見学することにしました。
永平寺の奥に入るのも、7年前の一夜参禅以来です。
母は永平寺に入るのが初めてであったため、私があちこちで解説をしながら進んでいきました。
山門、法堂、大庫院、傘松閣、承陽殿、仏殿、僧堂、中雀門などを見て回りました。
見ていない場所は、東司(トイレ)と浴室くらいです。
解説の内容は、ほぼ一夜参禅のときに雲水さんから教えてもらった事の受け売りでした。(笑
解説以外では、カメラを片手に永平寺の内部の写真撮影をしたりしました。
一部、撮影した写真を公開します。
もちろん、撮影禁止のところでは撮影していません。
永平寺の中を回っている途中で、祠堂殿で法要をしてくれたお坊さんがやってきました。
どうやら読経の時間になったらしく、法堂や僧堂などでお経を読んでいました。
偉いお坊さんだったみたいで、常に従者のように二人の僧侶がいました。
目の前を通って行かれるときは、全員で合掌しながら通り過ぎるのを待ちました。
一通り永平寺の中を見てから、永平寺を下山することになりました。
途中、吉祥閣にまで戻って来た時、ふと2階の奥にあった部屋が気になりました。
部屋の中は真っ暗ですが、スクリーンが張られて永平寺のことを紹介する映像が繰り返し流れていました。
私はその部屋に近づき、部屋の前まで来た時に気づきました。
その部屋は、2010年8月に一夜参禅で永平寺に来た時、私が寝泊まりした部屋でした。
そこに来るまでの間、すっかり忘れていたことです。
7年後に、まさかこういう形でまたここにやって来るとは、全く思ってもいませんでした。
もしかしたら、また来ることがあるかもしれないな、と心のどこかで今も思っています。
吉祥閣の1階に戻り、永平寺に所蔵されている国宝や重要文化財を展示している場所も見ました。
道元禅師直筆の書や、かつて福井県を統治していた檀家の大名の手紙などが展示されていました。
他にもありましたが、撮影禁止なこともありあまり覚えてはいません。
永平寺を下山した後は、門前町でお土産を購入しました。
私は当時のバイト先の皆さんに、煎餅を購入しました。
安く、日持ちする上に、大量に入っているので取り合いにならなくて済むと考えたからです。
母は2種類の違うお土産を家、近所、勤め先などに買っていました。
どこにそんなお金があるんだろうか、と思ったものです。
できれば永平寺そばを食べて行きたかったですが、そんな時間はありませんでした。
お土産を購入した後は、宿泊予約をしてある旅館に、祖母や叔父と共に向かうこととなりました。
今回、初めて分骨というものに行きました。
これでこの先50年は大本山で法要をしてくれることになります。
亡くなった人と、今を生きている人との関係を意識させられた機会でもありました。
上手く表現するのは難しいですが、一言で言い現わすなら
「過去と今は、繋がっている」
ということかな、と思います。
普段は意識することが少なかった「生」と「死」ですが、少しだけ意識するようになりました。
いつかは自分にも訪れることを思うと、やっぱり「死」は怖く思えます。
それに、自分が知っている人や身近な人が亡くなったことを知ると当然悲しいです。
しかし同時に、少しだけ「死」が怖くなくなっていきます。
不思議なものです。
自然と「今を悔いの無いように生きて行こう」と思うようになりました。
今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございました!